もりおか史!
2024/12/12
✤ 「大奥」と言えば、漫画やドラマ・映画などを通じて、江戸城に住まう女性たちの、絢爛豪華な生活をイメージする方も多いかと思います。ところでこの「大奥」、盛岡城にもあったことはご存知ですか。
✤ 全国各地の城の中に建てられた御殿(ごてん)に限らず、日本では古くから大きな邸宅は、来客などにも対応できる「表(おもて)」と、プライベートな空間である「奥(おく)」とに分かれていました。
✤ 一説によると江戸城御殿の「奥」のみを特別に「大奥」と称したとも言われますが、文化5年(1808)、11代盛岡藩主・南部利敬(なんぶとしたか)によって、盛岡城本丸の「奥」を「大奥」と称することが決められています。
✤ 具体的な場所は「盛岡城(本丸・二ノ丸)平面図<着色>」で赤く着色された部分、盛岡城本丸の南半分を占めるエリアでした。盛岡城「大奥」の実態は不明な点も多いのですが、基本的には江戸城「大奥」と同様、殿様(盛岡藩主)の家族、および彼らを支える女中などが日常的に生活する場所でした。
◤ 資料解説 ◢
「盛岡城(本丸・二ノ丸)平面図<着色>」 江戸時代後期
盛岡城本丸・二ノ丸の間取り図。二ノ丸にあった中ノ丸御殿が白色で、本丸御殿は黄色と赤色で描き分けられている。中ノ丸御殿が公的な儀式と政治の場として機能していた「表(おもて)」であるのに対し、本丸御殿は藩主の執務・生活空間である北側(黄色)の「側(そば)(奥(おく)・中奥(なかおく)とも)」と、藩主家族や女中たちが暮らす南側(赤色)の「大奥」エリアに分かれていたことを示す。
「盛岡城(本丸・二ノ丸)平面図<着色>のうち大奥部分拡大図」
北側の「側(そば)(黄色部分)」から「御鈴口(おすずぐち)」を通過して「大奥」にいたる。主に「大奥」の西側が藩主家族の生活する空間で、江戸城では「御殿向(ごてんむき)」とも呼ばれる。東側には女中らが勤める「御台所(おだいどころ)」や、彼女らが寝起きする「局(つぼね)」などのエリア(江戸城では「長局向(ながつぼねむき)」)と、大奥の警備や管理を任務とする役人(男性)が詰めるエリア(江戸城では「御広敷向(おひろしきむき)」)に分かれる。
©︎ The planet MORIOKA