盛岡という星で ThePlanet MORIOKA BASE STATION

盛岡を小さく丸いひとつの星に例えます。今までとは違う角度から盛岡を写し取り、見つめようとするものです。 盛岡を小さく丸いひとつの星に例えます。今までとは違う角度から盛岡を写し取り、見つめようとするものです。

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もりおか史!

2024/11/18

||◤#05 どこから運んだ?!石垣の石! ◢||

 
✤ 広大な盛岡藩の中心である盛岡城。現在、建物はほとんど残っていませんが、城跡には立派な石垣が残されています。
 
✤ ところでこの石垣の材料となる石材は、どこで調達されたのでしょうか。残念ながら築城当時の資料はほとんど残されていませんが、「御城廻御修補」という資料には、石垣の修復に使う石を「石間」(いしあい)・「八戸弥六郎屋敷」(はちのへやろくろうやしき)・「とつこへ」から調達するよう指示があったことが記録されています。
 
✤ 「石間」と「八戸弥六郎屋敷」は現在の盛岡市内丸(岩手医科大学周辺)、「とつこへ(斗米)」は紺屋町2番付近です。盛岡城の石垣の石は意外にも、城のごくごく近所で調達されていたのです。逆に言えば、すぐそばで石が調達できる環境だったからこそ、盛岡城の石垣は実現したのです。
 
✤ 盛岡の観光名所(三ツ石神社・石割桜・烏帽子岩など)で、当たり前のように巨石を見ることができるのは、実は盛岡ならではの特徴だったのです。
 
監修 ► もりおか歴史文化館 [WEB
 
 
 
 

 

◤ 資料解説 ◢

「元文盛岡城下図」(げんぶんもりおかじょうかず) 元文年間(1736-1741)

江戸時代中期の盛岡城下町を描いた絵図。城下図としては珍しく内曲輪(本丸・二ノ丸・三ノ丸)も描かれている。この内曲輪の北側の水堀で囲まれたエリアが内丸で、北部の石間と呼ばれていた場所には、いくつもの露出した巨石が描かれている。同様に内丸の東側には「トツコベ石」と記された巨石が描かれており、これらが盛岡城の石垣に活用されていたと考えられる。

「御城廻御修補」(おしろまわりごしゅうほ) 江戸時代

盛岡城の修復・補修に関する記録集。長い年月のなかで、盛岡城が如何に傷み、如何に修復されてきたかを克明に追うことができる資料。延宝8 年(1680)の石垣修復に関する記事では、材料の石を石間(いしあい)・八戸弥六郎(はちのへやろくろう)屋敷・とつこへから集めることが指示されている。築城当時の資料が少ないなかで、石垣の材料が近場で調達されていたことを示唆する重要な情報である。