盛岡という星で ThePlanet MORIOKA BASE STATION

盛岡を小さく丸いひとつの星に例えます。今までとは違う角度から盛岡を写し取り、見つめようとするものです。 盛岡を小さく丸いひとつの星に例えます。今までとは違う角度から盛岡を写し取り、見つめようとするものです。

盛岡という星で 盛岡という星で

もりおか史!

2024/5/20

||◤#01 「南部」ってなに?◢||

 
✤ 「南部せんべい」、「南部鉄器」に「マイルチャンピオンシップ南部杯」。盛岡を含む岩手県~青森県東部の特産品などの名前には「南部」が付きがちです。この「南部」、実は殿さまの名字だということをご存知ですか?
 
✤ 江戸時代、この地域には盛岡藩と八戸藩という2つの藩がありましたが、どちらも共通して「南部氏」の一族が統治していました。だからこの地域の特産品には、「南部氏の領地の」という意味で「南部」が付いているのです。
 
✤ ちなみに「南部」という名字は、南部氏の初代である南部光行(みつゆき)が、自分の領地だった甲斐国(かいのくに)巨摩郡(こまぐん)「南部郷」(なんぶごう)という地名から取って名乗りはじめたものです。光行が生きたのは、平安時代末期から鎌倉時代初め頃。だいたい800年前の人です。現在の山梨県の地名が、長い時間を経て、今や北東北の特産品の冠になっていると考えると、不思議なご縁を感じますね。
 
監修 ► もりおか歴史文化館 [WEB
 
 

 

◤ 資料解説 ◢

「南部氏歴代画像」(なんぶし れきだい がぞう) 江戸時代

南部家初代の南部光行(みつゆき)から、35 代目の利正(としまさ)(10 代盛岡藩主)までの歴代当主の甲冑姿を描いたもの。各図像の右側に該当人物の歴代数・通称(幼名(ようみょう)や官途名(かんとめい))・実名・父親・享年が記される。江戸時代の特定の段階でまとめて描かれたと考えられ、容姿は似ている部分も多いが、特筆すべき逸話や伝承が残る当主は、それが図像内に表されている(13 代守行(もりゆき)の双舞鶴旗(そうぶかくき)や14 代義政(よしまさ)の黒母衣(くろほろ)など)。

 

◤ 南部氏について ◢

南部氏は鎌倉幕府草創期に清和源氏(せいわげんじ)加賀美遠光(かがみとおみつ)の第3子光行(みつゆき)を祖として成立した武士団で、甲斐国(かいのくに)巨摩(こま)郡南部郷(なんぶごう)(山梨県南巨摩郡南部町)を拠点としたため「南部」を名乗るようになった一族である。未詳な部分も多いがこの南部光行が甲斐国から陸奥国に下向(げこう)したのち、馬の産地である陸奥国(むつのくに)糠部郡(ぬかのぶぐん)の一戸~九戸の地に一族が広まったといわれている。このうち三戸南部家がのちに盛岡城を築き盛岡藩主となり、いわゆる「盛岡南部家」が成立する。