盛岡という星で ThePlanet MORIOKA BASE STATION

盛岡を小さく丸いひとつの星に例えます。今までとは違う角度から盛岡を写し取り、見つめようとするものです。 盛岡を小さく丸いひとつの星に例えます。今までとは違う角度から盛岡を写し取り、見つめようとするものです。

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FA店 OOD

2024/9/30

 

     

10年以上25年未満の代替わりしていない小規模店。F(古すぎず)A(新しくもない)通称「FA店(エフエーテン)」。老舗特集にも新店特集にも載らない、でもきっと誰かの目的地になっているFA店の、今までとこれからのお話。盛星編集部がじっくり伺っていきますよ。

 

菅原史子さん、小田原祥子さん/OOD


 

中学校の同級生と伺いましたが、当時から仲良しだったんですか?

史子)仲良かったですよ!自分たちの他にも何人かいて、仲良しグループでした。ファッションのこと、ミュージシャンのこと、そういうのは雑誌から影響されて。それが共通の話題で、仲良くなったんですよね。よく読んでたのがOlive、あとはmc Sister。そういうファッション誌の中で取り上げられていたミュージシャンや雑貨が気になる、みたいな。

祥子)TIPIって私達が中学校のときあったよね?ブリキで動くおもちゃとか、バレエシューズが買えて。わくわくするような雑貨屋さんだったね。一緒に買い物に行ってました、他の雑貨屋さんとハシゴしたり。

高校はお2人一緒なんですか?

史子)私は北高。

祥子)私は二高。長い付き合いだけど、同じ学校に通ったのは中学校だけなんですよ。でも別々だった学生時代も、帰省するタイミングで会っていて「いつ帰るのー?」って連絡をとってました。

 

⸺進学先は違ったんですね、史子さんはどちらへ?

史子)東京の短大です。卒業後はそのまま東京の手ぬぐい屋さんで働き始めました。東京に住み始めてから、和のインテリアが好きになったんですよね。和の道具を使って外国人がコーディネートするインテリアがすごくかっこいいって思って。完全なジャパニーズスタイルではないんですけど、着物の帯がタペストリーとして掛けてあるような使い方がかわいいなと思って。そこでは21歳から3年ぐらい働いて、盛岡に戻ってきました。帰ってきてからは、1年くらい何もしないで過ごして、そのあとでテレビ局や盛岡市役所でバイトして。

⸺その頃、祥子さんはどんなふうに過ごしていたのでしょう?

祥子)私は仙台の短大に進学して、イギリスに留学しました。Oliveを読んでいて、海外への憧れが強かったのも留学を決めた理由のひとつです。留学して半年した頃「おじいちゃんが危篤」って言われて帰国したんですけど、私が帰ってきたら元気になって(笑)。でも、短大のときの先生の影響で「英語は使えたらいいかな」っていう気持ちも少しありましたし、せっかく留学したので資格も欲しかったので、もう一度イギリスへ。2回目は2年弱向こうにいました。「娘は国際的な人間になってほしい」って言うちょっとミーハーな母親でしたね、教育ママな感じもあって、塾も「こういうとこがあるよ」って片っ端から体験に申し込まれて、私が片っ端から辞めていくっていう(笑)

史子)私が盛岡に帰ってきたときには、祥子はもう帰国していましたね。その頃、私の周りでも家族の事故や怪我があったりして、盛岡に帰ろうかなって思ったんです。

24,5歳の頃、お2人が盛岡で合流したんですね。

祥子)私は盛岡に帰ってきてからテレビ局が経営していイベント会社に就職しましたね。外国人アーティストを相手に通訳をするお仕事。その後は光商事という会社で働き始めました。海外で買い付けをする仕事があったので、英語も活かせる環境で働きたくて。

光商事ってどんな会社なんですか?

史子)ハンジローってわかりますか?

ハンジロー!?古着とかアパレルのお店ですよね、めっちゃ行きました。エレベータのブラックライトとお香の匂い懐かしいです。ハンジローが光商事、っていう会社名だったんですね。

史子)ちょうど市役所の任期が終わるタイミングで祥子から声をかけてもらって「うちの会社で、古着をリメイクできる人を探してるんだけど、史子どうかな?」っていう話をされて。

私は手ぬぐい屋さんにいたときに、染めムラがある手ぬぐいを捨てずに、コースターやのれんにしたり、ちっちゃい端切れは葉書に貼って絵葉書を作たりしていたんです、それで声をかけてくれたんですけど…祥子とすごい仲良しだから、同じ会社に勤めるのが嫌で(笑)私たち同じ会社じゃない方がいいんじゃない?って言ってたんだけど、「フロアも全然違うし、部署も全然違うから、そんなに気にしなくていいと思うけど」って言われて。

そのとき頭に浮かんだのは市役所で働いていたときのこと。好きじゃないお洋服を買わなきゃいけなかったんです。今まで自分が持ってるお洋服ではさすがに浮きまくってしまって。安定収入で早く帰れるから選んだ仕事だったけど、お給料で好きじゃない服を買っているっていうのがなんか馬鹿馬鹿しくなって。好きでもない物にお金を払うことも、毎日、感情を超フラットにして過ごすことももったいないなって思ってたんです。それで、光商事に面接に行き、就職しました。

ハンジローには何年お勤めだったんですか?

史子)私は7年、祥子が8年かな?

祥子)会社は部署を超えた仕事もある社風でしたね、私は古着の部門じゃないけど、海外に買い付けに行くこともありました。

同じ出張先に行くこともあったんですか?

史子)ありました!超~楽しかったですよ(笑)私が初めての出張のときも祥子が一緒だったんです。

カフェはもう「祥子さんと2人でやる」って決めていたんですか?

史子)ちょっと恥ずかしいんですけど…。昔、2人で「将来、雑貨屋さんをやろう」って言ってたんですよ。中学生の戯言ではあるんですけど、何となくやれそうな気がするなあって思いながら大人になりました。

でも「雑貨屋って言ってたけど自分はカフェの方がやりたいのかも」って思いが変わってきた時期があって。ちょうどその頃に届いた祥子からの手紙に「カフェもいいかな、と思っている」って書いてあったんです。それで「やっぱりー?!」って。そう、それで、ほんとうにやれるのかもねって思い始めました。

祥子)イギリスと東京でエアメールでやりとりしたよね。全然具体的な話をしてきたわけじゃなかったけど、ずっとやりとりは続けて。


お店をやろう、っていう決め手になった出来事はあったんですか?

史子)祥子は仕事の内容的に区切りがついたタイミングがあったんですけど、私は、「今手放せる状況じゃないな」っていう感じだったんですよ。先に辞めて準備しててもいいよって言ってたんですけど、物件とかお金とか本当に具体的な話はしてなかったから祥子もまだ辞めずに会社にいて。そのうちに好みの物件に出会って、よし店をやろう!って気持ちが固まったんですが、こう見えて2人とも真面目なので…物件の手続きをスタートする前に、会社にもきちんと話したくて。

私が入るときに社長との面接で「将来は何やりたいの?」って聞かれて、カフェがやりたいって話していたので。辞めるときも、「そろそろカフェを始めたいので退社しようと思います」って伝えたんです。クリエイティブなことをするのを応援してくれる会社でしたね。

最初のお店の場所はどのあたりでしょう?

祥子)桜山神社の通りに面した場所で、今カレー屋さんがあるところの2階です。桜山周辺は区画整理の計画があって、数年後には取り壊す予定の場所でした。そうなったら速やかに出ます、という条件で家賃はとても安く入らせてもらいました。そこで8年営業しました。

史子)店舗は今に比べると狭かったですね。古い建物だったので、あまり内装はいじれなかった。客席は5席ぐらい。窓は1個、2個。木を貼り合わせた壁で、使ってる色も暖色系だったので白壁の今のお店とはだいぶ違う雰囲気でした。

11月オープンで、どのぐらい準備期間があったんですか?

祥子)1年以上はかかったよね。

史子)図面見たり、メニューを考えたりね。当時のメニューは今と全く違いますね。市役所とか県庁が近いから、頑張ってお昼営業もやってたんですよ。ランチやって、夜もお酒を出して。お昼11時から夜12時までお店を開けていたんですがあまりにもハードすぎて、だんだん人間らしい生活ができなくなってきて、営業の形を見直しました。

祥子)「カフェってこういうものじゃない?」って私たちが思うものをやったんだけど、全部はできないってわかったから。やれるレベルまでコンパクトにしていきました。自分たちは音楽が好きなので音楽のイベントに行きたい。でも、収入源はカフェをやることだから、遊ぶために休むって難しい。だから、遊びに行ってそこで売ることができるものがあったらいいんじゃない?って。

史子)一緒に行く仲間と、そんなに大きいお金をかけずにただ音楽を聴いてお酒を飲みながらワイワイ楽しみたかったんです。動機が不純かもしれないですけど。趣味と実益を兼ねつつ、でもあんまりストレスにならないようなやり方で。

祥子)桜山は季節の移ろいを感じられるのが好きでした、植物、通る人、イベントとかも。窓は少ないけど、あそこにいると感じられた。あの店もいいお店だったよなあって思います。

お店の移転を決めたのはどんなタイミングだったんでしょう?

史子)今のお店がある建物の2階がヨガスタジオなんですけど。ヨガスタジオの先生がこの物件を見つけて「この物件が気に入ったんだけど、ヨガだけでは広すぎる。下にカフェがあったらいいなと思ってるんですけど一緒にどうですか?」と声をかけてくれました。

当時は結構イベントに出店していて。ブラウニーをいっぱい作りたくなっていたんです。もっと焼きたいんだけど、いっぱい作ろうと思ったらお店を休まないといけない。でも、このまま桜山でお店を続けていこうと思ったら、カフェとしてやる方が合っているんだけどな…っていう微妙な時期に今のお店の打診がきて。夢みたいなお話だな、って思ったんです。近くにあるJAZZYSPORT MORIOKAには、音楽のイベントがあるときに数回来たことがあったし、カフェというスタンスを取らなくてもいいのかもしれないと思い始めていたのもあって移転を決めました。

⸺移転後はどうでしたか?

祥子)桜山のお店は徒歩で来てくれる人が多かったので、来てくれるお客さんは変わりましたね。さらにマイペースでできるようになりました。イベントも、出たいと思ったのには出られるし、平日のお客さんは多くないので、今は金土日だけ営業にしています。やり方と、スタイルはだいぶ変わりましたね。

⸺OODの代名詞、ブラウニーはいつごろから作っているんですか?

史子)桜山のお店の頃からです。ご飯、コーヒー、お酒もある。だったらスイーツもあった方がいいよね?っていうことで。ビターチョコレートの味で作ったのが最初で、次に抹茶味が増えました。

祥子)今は30種類ぐらいはあるかもね。

史子)ときどき登場する味や、1回しかやってない味もいれたら、そのくらいはあるね。初めて作ったときに2人で「おいしい…!!」ってなりました。きれいなケーキもたくさんあるけど、自分たちのお店に合ってるお菓子。デコレーションとかクリームがかかってるとかじゃなくって、素朴で、外でもパクッて食べられるお菓子。

私はチョコレートがすごく好きだから、ちゃんとチョコ感が欲しかった。市販のケーキは上にかかったチョコでごまかされてる気がして。でも、自分達のブラウニーには欲しい分のチョコを入れられるんだって気づいて「もうちょっとチョコを入れようか」って試作を繰り返していたら、すごく好みの味に仕上がっちゃった…っていう感じです。

⸺大切にしている言葉があれば教えてください。

史子)今よりちょっと若くて、お店をやるぞ!っていうタイミングで知った、“You enjoy myself”ですね。私たちのサブテーマみたいな(笑)OODって単語としては短いので、なんか物足りないなーっていうときにOODのあとに書き加えたりしている言葉です。

祥子)普通は、I enjoy myself、You enjoy yourselfなんです。“You enjoy myself”は、「ここにいる人みんな一緒に同じことを同じように楽しむんだよ」、というような意味だと思っています。ヒッピーのカルチャーに傾倒してるわけでは全然ないんですけど。音楽絡みでもそういうスタイルの人が多くて、そういう空気、いいなと思うので。

史子)あ、FISHの曲のタイトルだったんだ。私たちの共通するワードって言ったらこれかな。改めて言葉にするとちょっと恥ずかしいですね、

これからお2人でやりたいことって何かありますか?

史子)以前はかなり遠い場所のイベントも、仲間と音楽があるなら行こうって思える体力、精神力があったんですけど。体力がなくなってきて、あれもこれもが出来なくなっている、って感じはしています。

でもその中で、かわいいと思うものを販売したり、2人が楽しいって思うことを続けたりできればいいな、というか。ざっくりしてますけど、それでしかないというか。

祥子)今、お菓子の材料の流通が本当に厳しくて。続けられるのかなっていうぐらいの金額に上がっちゃったんです。どうしたもんかっていう感じもあります。ブラウニーだけにこだわっていたら、これからずっと続けていくのは難しいときが来るかもしれない、とは思うので。「ここでこれが買えるんだ!」って、お客さんに喜んでもらえるものを見つけられたらいいな。食べ物なのか、物販なのかはわからないけど。

それがある前提でいろいろ計画したところで、翌年はないかもしれない。もしかしたら病気をしてしまうかもしれないし。何かはきっと起こってしまうけど、だからね、楽しめることを探しながら。特に音楽は自分たちの余白っていうか、大切な遊び。楽しく遊べる自分でいたいから、仕事も頑張りたいな、と。自分達のテンションがうわーって上がることをやりたい、それが一番です。

 


OOD(2006年11月11日オープン/盛岡市厨川5丁目13-48
Instagram @ood.brownie

 

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