盛岡という星で ThePlanet MORIOKA BASE STATION

盛岡を小さく丸いひとつの星に例えます。今までとは違う角度から盛岡を写し取り、見つめようとするものです。 盛岡を小さく丸いひとつの星に例えます。今までとは違う角度から盛岡を写し取り、見つめようとするものです。

盛岡という星で 盛岡という星で

FA店 MITAD Y MITAD

2024/10/31

 

10年以上25年未満の代替わりしていない小規模店。F(古すぎず)A(新しくもない)通称「FA店(エフエーテン)」。老舗特集にも新店特集にも載らない、でもきっと誰かの目的地になっているFA店の、今までとこれからのお話。盛星編集部がじっくり伺っていきますよ。

 

水野拓郎さん、水野貴子さん/MITAD Y MITAD         


 

お店を始めるまでのこと、教えてください。

拓郎)僕は盛岡出身です、小さい頃は母親が料理を作っているところをひたすら隣で見てる子どもだったみたいです。父は飲食店で働いていたので長い時間を一緒に過ごすことは難しかったですね。でも代わりに休日は、山や川や海に連れ出してくれていました。

高校は盛岡工業高校で、卒業してから一般企業に就職もしたんですけど、「このままでいいのかなぁ」という感じで気を揉んでいました。その頃に、ひょんなことから料理の世界に誘われたんですが、決意するまでには勇気が必要でした。ずっと見てきた父と同じ仕事、半端な気持ちで務まらないと思っていたので。22歳で、居酒屋からスタートして、イタリア料理の店へ。そこで4年ほど修業しました。そのあと「旅に出よう」って思ったんです。

 

旅に出よう、って思った理由はなんでしょう?

幅を広げたいというか、視野を広げたいというか。育った街から外に出ていないっていうのもあったんだと思います。夜行バスであちこちの街へ行って、宿をとって、いろいろ食べて、店に足を運んで。1年ぐらいかな。旅に出っぱなしというわけではなくて、ときどき盛岡には戻ってきていました。父は旅にでるときも「行ってこい!」って感じでしたし、料理の世界に入ることも全く強制されませんでした。「俺は料理がやりたくて店やったってだけだから、お前はお前で自由にしろ」って。

旅で立ち寄った金沢でいろいろ食べ歩いて、スペイン料理ってこんなに美味しいんだ!…ってびっくりした店がありました。今でもそのときのことを、本当に、鮮明に覚えてるぐらいです。お店に入った瞬間から美味しい香りがずっとしてて。1回食べて、また別の日にもう1回行って。やっぱり美味しいなって思って働かせて欲しいって直談判しました。マスターがいて、ママがいて、アルバイトの子がいて、3人で回しているお店でしたね。マスターからは「1週間考えさせてくれ」って言われました。

老舗のスペイン料理店で、もう弟子はとらなくてもいいかなっていう時期だったみたいで。1週間後、「期限付きならOKだ」と。ただ、「30歳までに独立して自分の店をやれ」と言われて背筋が伸びましたね。死に物狂いでやります、って答えました。半年間でものすごい量のメニューを覚えて、営業時間はホールで、ちゃんと料理を説明できるように。営業時間外はマスターが見てる中で実際に仕込みをしていく。レシピも口伝なので、その都度メモして、食べて覚えて。常連さんたちから「マスターのと全然違うぞ」ってダメ出しももらいながら、ちょっとずつ。ありがたいですよね、そんなふうに言ってもらえるのって。

朝はマスターと一緒に仕入れに行って、店に12時頃に入り、17時まで仕込みして、営業が23時まで。午前1時くらいには仕事が終わり。家は寝るだけの場所でした。

修業先の30周年記念パーティの料理を兄弟子たちと任せていただくまでに育ててもらいました。休みの日も「温泉行くか?」とか声かけてくれて。本当に息子みたいに育ててもらいました。

貴子さんはどんな環境で育ったのでしょうか?

金沢市内で育ちました。兄が2人いるのでほぼ男の子みたいに。末っ子なんだって言うとみんな「可愛がられて育ったね」って言ってくれるんですけど、結構ハードに育っています(笑)父の仕事が自営業でグリーン(観葉植物)を病院やお店などに貸し出す仕事だったので広い敷地が必要で、金沢市内でも結構田舎の方に住んでたんです。ギャラリーもやっていました。金沢、ものづくりしている方すごく多いんですよ。

おばあちゃんが、通りがかりの人も家に入れちゃうような家でしたね。「この人は誰かなあ~」っていう人が家で一緒にご飯食べてたり、お茶飲んでいたりするのが日常でした。漬物が上手なおばあちゃんで、お餅、赤飯、青いみかんが年中あって。誰か来ると、まず「お腹すいてるだろ?」って聞くんですよ(笑)ちょっと変わった家だったと思います。6人家族だったんですけど、みんなバラバラの時間にバラバラのものを食べることも多かったですし。

高校はすごく自由な校風でした。りんご畑をわーっとのぼって行った先にありました。

拓郎)盛岡工業高校みたいな場所だよね。

貴子)私たち、盛岡と金沢で高校はすごい離れてるんですけど、どちらの出身校にも「リンゴを取ったら退学」っていう校則があるっていう謎の共通点があるんだよね(笑)

高校2年生になり進路で悩んでいた際、母から「安い海外ツアーを見つけたから一緒に行こー!貴子、自分でパスポート取っておいで」って言われたんです。大学進学も少し考えたんですが勉強にそんなに興味はなかったし、母との旅行先だったフランスに留学しよう!と。高校は3月に卒業して、海外の学校が始まる9月まで半年弱。「時間があるから、フランスに行って自分で学校を決めておいで」って親から言われて。4月から6月はバイトしてお金を貯めながら、学校のことを調べて、本屋でも調べて、目星をつけたら親に報告して…という感じで準備しました。

1年間はホームステイをして、2年ぐらいですね、語学学校に通いました。父のギャラリーで作家さんが展示をするたびにがらっと雰囲気が変わるのを見ていた影響もあると思うんですが、ショーウィンドウデザインっていう、百貨店にあるディスプレイとか、商品イメージをいろいろな素材を使って立体で形にする職業に興味が湧いて。専門学校を受験したけど難しく、何年も滞在して再受験する道もあったけど、帰国を選びました。フランスで過ごしたのは19歳から21歳まで。

家に戻ってからは、「フランス語ができる人を探している」と言われ、知人の紹介で東京で働くことになったんです。フランスに工場がある会社で、ジャムを作っていて、それを輸入販売していました。そこがめっちゃめちゃ忙しかったんですよ。銀座の路面店で。正社員になってからはさらに忙しくなりました。新店舗の店長を任されることになり、朝から晩まで日本橋と銀座を往復しながら…本当に激務でした。トータルで3年くらい働いていたんですが、記憶がないですね(笑)

金沢に戻ってきてから、捻挫をこじらせたときに出会った方がいたんですが、その方がヨガの教室の先生でアシスタントを探していて。激務の影響で体調もまだよくなかったし、体に良さそうだから続けてみようかな?って。小さい時にバレエを習っていたし、「向いてるよ」って言われて、1年半ぐらい経ったころには3クラスの担当をもつヨガのインストラクターになっていました。

カフェでもバイトして、ヨガの教室が終わって22時に家に帰って、という生活でしたね。その頃に共通の友人から拓郎さんを紹介されたんです。

拓郎)僕もずっと友人から話は聞いてたんですよ。で、ある日、「ちょっと会わせたい人がいるんだけど」って言われて。それで、職場のスペイン料理店で初めて会いました。

貴子)お互いに仕事で会える時間が短かったから、結婚を決めるのは早かったよね。そのあと妊娠して、盛岡に引っ越し。こっちで長男を出産しました。

拓郎)マスターと約束した「30歳までに起業」は、ギリギリでしたね(笑)

貴子)盛岡が1番わくわくした気持ちになる緑や花でいっぱいの5月。大好きなこの季節を目標に準備していた矢先、東日本大震災が起きました。予期せぬ出来事で不安も暗い雰囲気も拭えない中でしたが、復興のために駆けずり回る工事関係の方々、工務店さん他、たくさんの方々からご協力をいただき、7月、オープン日を迎えることができました。たった2ヶ月の遅れです。感謝の気持ちでいっぱいでした。

正直なところ、多くの人がまだまだ辛い気持ちでいるかもしれない時期なのにいいのかな、と迷ったりもしました。でも、「こういう時期だからこそ活気が必要なんだ、頑張って!」と、励ましの声をいただきながらのオープンでした。

 

材木町に決めたのはなぜですか?

拓郎)ここが昔、レストランだったっていうのは僕は知ってたんですよ。昔食べにきたことがあって。でも店の場所を検討しているときに通ったらカーテンも閉まって、真っ暗。気になって、下の階でお話しを聞いた方がたまたま大家さんの娘さんだったんです。後からわかったんですが、最初は貸す気はなかったんだそうです。でも大家さんに店をやりたいとお願いすると「いいよ、やってごらん」と言ってくれて。貸してくれるだけでなく、そのあともとてもとてもお世話になりました。

⸺オープンの頃はどうでした

貴子)私は1歳児の育児をしながらで、めちゃくちゃ大変でしたね。すぐに保育園を決めてパンを焼きには来ていました。ランチで働いたら夜は帰って。20代の頃の銀座の激務とはまた違うけど、なかなかハードでしたね。保育園の存在がありがたかった。

2人目の出産のときには、お昼にパン焼いて、午後に入院して、次の日に出産でした。産後2ヶ月からまたパンを焼いてたかな。あそこのキッズスペースで寝かしていましたね。夜はお客さんのお子さんにも使ってもらって。

長男はすごいパパっ子だったんです。当時は保育園の帰り道と朝の登園前がパパと会える時間。毎日毎日店の前で、今生の別れ!というぐらい泣いて、少し歩いて。「…やっぱりさみしい!」ってダッシュで戻ってきて抱きつく…みたいなことをやっていました。周りのお店のみなさんも「今日もやってるなあ」って感じで笑って見守ってくれていましたね。

今でも「背中に背負っていた子は何歳になった?」ってお客さんから聞かれることもありますよ。


 

オープンして10年の頃は?

貴子)子どもが3人になりました。お店の10周年にスペイン行きたいねって話してたんですけどコロナが始まってしまって。海外どころか岩手も出られない。

拓郎)学校や保育園も休校になることも多かったし、ゴールデンウィークにこんなに休んだの初めてだったよね。「天気もいいし、ペンキでも塗ってみる?」って家でDIYしたり。みんなで粉だらけになって生パスタを作ってみたり。不安もありましたけど、子どもたちとこんなに長い時間いれること、なかったなあって思います。

大切な言葉があれば教えてください

拓郎)いっぱいあるんだけどね(笑)ぱっと出ないなあ。

貴子)私は、お店を始めるときに彼のお父さんが言ってくれた言葉ですね。「普通はこちらがありがとう、なのに、お客様として来ていただいて、さらに『ごちそうさま』『ありがとう』って言葉をもらっちゃうんだから。こんなに幸せな仕事ないんだよ」って言われたんです。本当にそうだなと思います。お客さんはこの店を選んで来てくれてるんですもんね。

拓郎)パンションの学生さんとか、「大人になったら食べに行こうと思ってたんです」って言ってきてくれる子もいるんですよ。うちの店に憧れを持ってくれていたんだなって、嬉しくなります。学生だった子が、仕事を始めて、結婚して、子供と一緒にまたきてくれたり。

貴子)ここじゃなければ出会えなかったなっていう方々がたくさんいます。

いつも変わらないお2人がいて、変わらないお店があるっていうのがお客さんも安心するんでしょうね。

貴子)でも…移転するんです(笑)年明けに夕顔瀬町に。

1階は気軽に一杯って立ち寄れるオープンな感じで、テイクアウトにも対応したり。2階には川が見えるような個室を作って、ご家族の記念日に使ってもらえたらいいな、と思っています。夜の営業も2人でお店に立つようになって、家族のことを考えた時に心置きなく仕事ができる環境を作りたかった。材木町からあまり大きく離れないように、という気持ちもあり、夕顔瀬に決めました。春はきっと桜がきれいです。川の向こうには緑が見える。私も県外から来てるから、「盛岡はいい景色がいっぱいあるぞ」って知ってる1人なので。その景色を楽しみつつ、スペイン料理を食べてもらいたいですね。

拓郎)みなさんに楽しく過ごしてもらうことが一番。休憩でもいいし、食事でもいいし、ワインでもいいし。ぷらっと焼き鳥屋行くぜ!みたいな気持ちで寄ってくれたら嬉しいですね。

 


MITAD Y MITAD(2011年7月6日オープン/盛岡市材木町3-13【2025年夕顔瀬町に移転予定】
Instagram @mitadymitad_spain

 

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