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盛岡を小さく丸いひとつの星に例えます。今までとは違う角度から盛岡を写し取り、見つめようとするものです。 盛岡を小さく丸いひとつの星に例えます。今までとは違う角度から盛岡を写し取り、見つめようとするものです。

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FA店 自家焙煎 いなだ珈琲舎

2024/12/30

 

10年以上25年未満の代替わりしていない小規模店。F(古すぎず)A(新しくもない)通称「FA店(エフエーテン)」。老舗特集にも新店特集にも載らない、でもきっと誰かの目的地になっているFA店の、今までとこれからのお話。盛星編集部がじっくり伺っていきますよ。

 

稲田耕基さん/自家焙煎 いなだ珈琲舎         


 

子どもの頃はどんなお子さんでしたか?

稲田)人見知りで、なかなか友達ができなかったですね。野山を駆け回るというよりは家の中で一人でお絵描きしているような子だったようです。

心配した親が、友達ができるようにと音楽教室に通わせてくれました。私は長男で、2歳下に妹、4歳下に弟がいます。2人とも今も音楽に携わっていて、妹はエレクトーンの講師をしていますし、弟は北上市にある北上ウィンドアンサンブルで団長をしております。

父はプレイヤーではないのですが音楽を聴くのが好きで、いつも家には音楽が流れていました。ルイアームストロング、グレンミラーなど軽めの音楽が多かったですが、民謡や合唱曲も流れていた記憶もありますね。幼稚園児の私も一丁前に好きなレコードを選んでかけたりして(笑)。これが当時のレコードです、落書きもそのまま。なつかしいです。

 

小学5年生の時に紫波町の日詰小学校に転校してきたんですが、その年、ちょうど小学校に金管バンドができたんです、これは運命だ!と思ってバンドに入りました。トランペットに出会ったのもこの頃。すぐハマりましたね。ところが進学先の中学校には吹奏楽部がないことが分かって。同級生の男子3人で、中学校の校長室をアポなし訪問して「吹奏楽部を作ってほしい」とお願いし、その甲斐があってか中学2年生の時に吹奏楽部ができました。

高校でも吹奏楽をやりたくて、いろいろな学校の定期演奏会を聴いて、トランペットが一番上手いなと思った学校に行きました。今も当時の先輩と交流がありますね。いつまで経っても先輩には頭が上がりません(笑)

高校生になり、音楽大学進学を見据えて練習を始めました。いつもの練習のほかに音楽理論も勉強しなきゃいけないしピアノの練習もしなきゃいけないしで、だんだん学校の成績は落ちていったりして。

受験のときは、「どこで習うかより、誰から習うのかが大事だ」と思い、尊敬する先生と演奏でよく組んでいた方がいる、広島の音大を選びました。

 

広島での暮らしがスタートしたんですね。

そうですね、アパートで一人暮らしをしていました。大学が開く7時から授業が始まるまで練習、授業が終わってからまた練習…という生活でした。先輩から「ワシがどれだけ早く来ようとも、稲田が玄関前でもう待っとんじゃ」って悔しそうに言われたことを覚えてますね。当時は練習室は早い者勝ちだったので(笑)

大学では音楽漬けですね。プロになるため、という自覚はなかったです。好きなことをやれる喜びだけでした。

飲食のアルバイトを始めたのもこの頃。ファミリーレストランで、働く部署がホールと調理場、洗い場の3つから選べたので、洗い場を選んだんです。意外に思うかもしれませんが、当時は幼少期の影響もあり、人付き合いは得意じゃないと思っていたので。一番嬉しかったのは「君が帰るときにはいつも洗い場がきれいになってるね」と言われたことですね。

広島に行くまではインスタントコーヒーしか飲んだことがなかったのですが、先輩が名曲喫茶(音楽鑑賞と喫茶を楽しむお店)に連れて行ってくれたことがあったんです。注文のときも豆の銘柄は全然分からなかったので、かっこよさそうな「キリマンジャロ」を頼みました。香りも味も、今まで知っているコーヒーとはまったく別のものに感じました。

4年生の頃にはその名曲喫茶でアルバイトをすることに。「お客様に珈琲を出す」というのはそこが初めてでした。大学の休憩時間にも、手回しのミルで豆を挽いて珈琲を淹れたりするくらい夢中でしたね。

わたしが3年生の時にバブルが弾け、音楽大学にまわってきていた求人が全くなくなり、音楽関係の進路はかなり難しい状況に。卒業してからの2年間は、偶然みつけた音楽の非常勤講師をやりながら、喫茶店でアルバイトをしました。音楽でプロの奏者を目指したいという気持ちも残っていたので、アルバイトをして、トランペットの練習をして、という生活でした。

でもあるとき、プロと同じ舞台に立つ機会があり、自分の音がすっごくショボく感じたんです。このままじゃ自分は通用しないなと。それで、2番目に好きなことだった珈琲を仕事にしようと思ったんです。最初の修行先では12年、36歳までお世話になりました。いろいろあって退職することになったとき、もう飲食関係はやめようかなと思って。四国88か所巡りをしたり、ローカル線に乗ってきれいな景色を観に行ったりした期間がありました。自分が傷ついていたあの頃に出会った人や景色は、ふとした時に思い出したり、今でも忘れがたいものとして残っています。

 

37歳の時に2つ目の修行先「かわもと珈琲舎」で働きはじめました。店主が言ってくれた「あなたは珈琲でやっていくべきだ」という一言は忘れられません。お店の居心地がとっても良く、ずっとここに居たいと思えるようなお店で。趣味で続けていた音楽もあり、公私ともに充実していた毎日。楽しいな、幸せだなと感じながら広島でぼーっと生きてました。(笑)

辞めるきっかけは何だったんですか?

震災です。わたしは生まれが陸前高田で、家を流された親族もいます。同じ頃、父に病気が見つかり、「戻ってこい、40歳まで好きなことやっていたんだからいいじゃないか」と言われて、40歳の12月に岩手に戻ってきました。22年の広島での生活がとても気に入っていたので、帰りたくない気持ちの方が強かったですね。

岩手に戻ってきてからは、飲食というカテゴリーと、働く地域を少し広げて考えてみようと思って、フランス料理店で働いたりも。43歳の5月から物件を探し始めて、1店舗目の物件と出会ったのは7月くらいだったかな。雰囲気は悪くなかったんですが超オンボロでした。工事関係の人からも「本当にここでやるんですか?」と心配されたくらい。

なんであの場所だったの?と聞かれることもあるんですが、もうそこしか選択肢がなかったんです。お金がなかったので居抜きで始められるかどうかも大事だったので。

 

オープンの日は?

人にお願いしてチラシを作ってもらい、1800件くらいの住居に2日間かけて自分でポスティングしました。飲食店なので、味について意見を言われるのは仕方がないですが、お客様が「店を知らない」というのは悲しいので。オープン日から2週間くらいは「1杯300円」にしてプレオープンと称して開店したんです。

最初の5日間くらいはよかったんですが、年が明けてからはパタッとお客様が来なくなり苦しかったですね。でも来店した方からのご紹介もあり、いなだ珈琲舎を知ってくれている人が少しずつ増えてきました。

モーニングはね、みんなに反対されましたよ。盛岡で7時半にお店を開けたってお客さんがくるわけない、って。ランチの方がいいんじゃない?ナポリタンとかハンバーグぐらいあった方がいいんじゃない?って。

出勤前、お昼の休憩、会社帰り。喫茶店って時間によってお客様の雰囲気が大きく変わるんです。その中でも私はモーニングを食べてコーヒーを飲んで「行ってきます」っていう、朝の雰囲気が好きで。自分の店も、明るく、いい1日のスタートが切れるような店になったらいいなという思いがあったので。

初めはオーダーも少なかったですね。最初の半年ぐらいはモーニングよりは珈琲単品の人の方が多かったです。今は午前中にいらっしゃるお客様の9割はセットを注文してくださいます。「ここってモーニングだけじゃなくて、珈琲豆も買えるんですか?」って言われたりするとちょっと複雑ですけど(笑)

移転もありましたね。

はい、2022年の12月25日です。開店記念日と移転の日とたまたま同じになりました。

家主である松栄商事株式会社の佐藤さんから、この建物をリノベーションするから入居しないか?って言ってもらったのが2年前の8月か9月。設計は、今2階に事務所があるカタライズデザインの山下さん。最初の店で電動車椅子の方を断った後悔があったのと、年齢を重ねてからも気軽に来てもらえる店でありたかったので、バリアフリーのお店にしたいとお伝えしました。

入口もスロープで、車椅子で、どの席にも座れますし、お手洗いも「住めるくらい広い」って言われたりしますよ。

今の店の形ももちろん好きですが、前の店ではカウンター越しに、ちょっと駄洒落を交えながら「この人はどういう人なのかな?」とか「どういうコーヒーが好きなのかな?」とか、何て言うかな…自分としては仕事がやりやすい距離感だったなあという気持ちもあります。

心に残っている言葉はありますか?

以前SNSに、「この店には音楽がある」って書いてくださった方がいたんです。豆を挽く音、ドリッパーに移す音、トーストを切る音、まるで音楽が鳴ってるようだって。私はそれを見たときにものすごく嬉しくて。10代、20代、ずっとやってきたことですから、最高の褒め言葉でしたね。日々、そういう仕事をしたいと今でも思っています。

 

 

いなだ珈琲舎のこれからについてもお聞かせください。

5年すると58歳になるので同級生は定年を迎える年齢です。自営業なので、今までどおりマイペースでやるつもりですが、これからは体調と向き合いながら、店を続けていくことをどうやって考えるかという方向性になると思うんですね。広げてくとか大きくするとか、元々その考えはないんです。自分がやることの純度を高めていきたい。やらなければ、と思っていたことをそぎ落としていって、やりたかったことにシフトしていきたいと思います。

人のノウハウってその人がいなくなると終わりなんですよね。焙煎のことや、メニューのこと、それは紙に書けば残しておけることなんですけど、そういう部分じゃないフィロソフィーの部分。人に対しての向き合い方とか、大きなことを言えば「人生とは?」とかを、継ぐ、だとちょっと違うんですが…お店を通して伝えられたら、とは思います。

スタッフにはよく、自分の夢や目標について真剣に考える機会が大切だよと話すんです。自分を振り返り、次に進む。一緒に働くスタッフ、お店に足を運んでくださるお客様がそんな時間を過ごす手助けができたらいいですね。


自家焙煎 いなだ珈琲舎(2014年12月25日オープン/盛岡市南大通1丁目12-18 松栄館1階
Instagram @inadacoffeesya

 

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