盛岡という星で ThePlanet MORIOKA BASE STATION

盛岡を小さく丸いひとつの星に例えます。今までとは違う角度から盛岡を写し取り、見つめようとするものです。 盛岡を小さく丸いひとつの星に例えます。今までとは違う角度から盛岡を写し取り、見つめようとするものです。

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FA店 figuleti

2024/2/2

 

10年以上25年未満の代替わりしていない小規模店。F(古すぎず)A(新しくもない)通称「FA店(エフエーテン)」。老舗特集にも新店特集にも載らない、でもきっと誰かの目的地になっているFA店の、今までとこれからのお話。盛星編集部がじっくり伺っていきますよ。

 

渡部孝広さん/figuleti


 

⸺渡部さん、ご出身はどちらでしょうか?

出身は、秋田県男鹿市です。工業高校に通っていて車や機械が好きだったんです、休みの日には中古車情報ばっかりみている高校生で、所ジョージさんが乗ってるようなアメ車に憧れていました。外国の車って、パッとみて、あ!ってわかるじゃないですか。説明しにくいんですけど、そのパッとみて「なんかかっこいいぞ」っていう感じがよかったんですよ。

実家は農家です。だからかもしれないですね、職業が生活で、職業が人生、って感じは当たり前だった。農家の機械って物によっては高額なんですよね。お店を出す時、実家で借金の話をしたら「コンバインとトラクター合わせたら2000万するぞ、なんだ、店ってそんなもんですむのか」と父から言われました。自分的には大きい額の借金でビビってたんですけど、そっか、「『そんなもん』なんだ!」って(笑)

工業高校なので進路は自動車整備士や機械系を選ぶ友人が多かったです。一方僕は、話題だったカリスマ美容師が、テレビ番組でポルシェに乗ってるって話してて「なるほど、美容師になればポルシェにも乗れるのか!」って驚いて。当時はビジュアル系バンドも人気だったので、自分が好きな髪型をして、着たいと思った服を着られる仕事がいいなあと思ったのが美容師を目指すきっかけです。

高校生の頃、盛岡にもよく来てたんですよ。地元のファッションリーダーだった友人に「かっこいい!どこで買ったのその服?」って聞くと、秋田でも仙台でも、東京でもなく、盛岡って言うんです。友達みんなでバスで来て、バスセンター前にあったウィズモリオカビルとかデプラスモンで、安くて、個性的な服を探しました。「すごい!神社みたい!」って言いながら開運橋を渡って、洋服買って、パイロンでじゃじゃ麺食べて、またバスで秋田に帰る。盛岡、好きでしたね。


 

⸺そして、盛岡での就職。働きはじめてからはどうでしたか?

信じられないかもしれないんですけど、美容師の仕事には資格が必要だって知らなかったんですよ。盛岡の大きい美容院に就職して、では資格を取りましょうって言われたときも「いや、僕はいらないです!」って言ったくらい(笑)寮で暮らしながら、店では先輩のアシスタントをして、夜は試験の勉強をしていました。

一緒に入った同期は、半年で3分の1くらいになりましたね。夜も遅いですし、手も荒れるし。あ、僕は全然手が荒れないんですよ。ハンドクリームもつけないんですけど、元から強くて。ラッキーでした。カットとか巻くのがうまい人でも、手が荒れてそれに耐えられなくて辞めちゃう人もいるくらいなので。

最初に就職した美容院のあとは、床屋さんにも勤めたんです。そのころガルフが流行っていて給料はほとんど服に消えてました。床屋さんのあとは、会話をたっぷりしながら時間をかけてカットする個人店でも働きましたし、1日に30人カットするようなスピード感あるお店でも働かせてもらいました。20歳くらいの頃はとにかく髪を切りたかったです。夜、友達と飲みに行く時もハサミを持って行って、「前髪長くなって来てるね、ちょっと切らせて」って言ってみたり(笑)

 

29歳の頃働いたのは、2階にあるのにめちゃくちゃお客さんが入るお店でした。僕はカットの講習会にもかなり行ってましたし、技術はあるつもりだったんですけど、なかなかお客さんがつかなくて。お客さんが「こんなふうに切りたい」って言っても「こっちのほうがいいんじゃないか」ってちょっと強引な提案をしたりしていました。そういうのお客さんが求めているとも限らないんですけどね、少し調子に乗ってた頃です。

そのお店にカットは特別上手ではないけど、とにかく聞き上手な先輩がいました。あるとき休み明けの僕に「なべっち〜、休みはなにしてたの?」って聞くので答えたら、「うんうん、うん、へ〜!そうなんだ〜!」ってとにかくよく聞いてくれて、それがすごく気持ちよかった。そこで、「そっか、自分がずっと喋らなくてもいいんだな」って。

こないだラーメン食べに行ったんですけどね…、ってお客さんに言われたら「僕もラーメン食べに行ったんですよ!」って返してたけど、ちょっと堪えて「へー、どんなラーメンなんですか?」って返事をする。自分のことを話したくなるのをぐっと我慢して(笑)それから視点が変わった、というか。気づけたんですよね。美容師ってどういう仕事なのか、また少し理解できた時期でした。

そのあともいくつかのお店で、経営の難しさを知ったり、新規開店を経験したりしながら、自分が最大限の力を発揮できる場所について考えて。そのあたりには、自分もなんとかやっていけそうだって思えていました。働く場所がどんどん変わっても、自分についてきてくれるお客さんがちゃんといてくれたことが、お店をやる決意を後押ししてくれましたね。

 

⸺お店のオープンまではどんなふうに進めたんでしょうか?

オープンは2008年1月25日ですね。ずっと30歳でお店を出したいと思っていたんですけど、実際に動けたのは32歳の頃。菜園のHolzにふらっと行って「店を出したいんだ」って相談して、お金の借り方とかいろいろ教えてもらいながら店を作りはじめました。実際に融資が決まったのが2007年12月13日。1月に成人式を迎えるお客様がいたのでなんとか間に合わせたくて、急ピッチでお店づくりを進め、仮オープンのような形で無事に着付けをしてあげられました。

…実は僕、就職1年目に勤めていた美容院で、成人式の日に寝坊して遅刻しちゃったんですよ。職場のみんなが朝の4時、5時から着付けやセットをしてるのに、起きたら8時で。当たり前ですけどめちゃめちゃ怒られたんです。それからいろんな店で仕事をしたんですが成人式のお客さんっていなかったのに、自分のお店で初めてのお客さんが、就職1年目以来の成人式のセット。やっと僕も成人式の神様に許されたのかなって思いました(笑)

 

⸺オープンから10年経った頃はいかがでしたか?

10年というと2018年、42歳ですね。お客さんも順調にきてくれるようになって、安定していたというか。でもなんかこのままでいいのかなって思って。飲みに行った時に出会った若い美容師さんが「髪が傷まないブリーチがある」って言ってて、そんなわけあるか!と思いながら講習会に行ったんですよ。ブリーチって、できるだけ短い時間でやる方が傷まないって思ってたのに、講習会で教わったのはブリーチ剤を塗ってから5,6時間放置する、新しいやり方だったんです。「俺は10年間何をしてたんだろう、安定してよかった、って言ってる場合じゃない」と思って、毎月、東京に講習会に行くようになりました。ピアスをいっぱいしてちょっと遊んでそうに見える10歳以上若手の美容師さんが、僕の目指してた資格を持っていたりする姿に、すごく焦りを感じて。で、「厄」年だったので、どうせなら飛「躍」の年にしようと。10年の節目はそういう年でした。

 

⸺渡部さんが大切にしている言葉について教えてください

心に残っている言葉は、「20代の汗は、30代への切符」です。

僕が20歳の頃に、宮城にいる10個上くらいの先輩から言われた言葉なんですけど、一緒に飲みに行ったときに、急に「たかひろ!メモれ!」って言われてノートに書きました。あとから矢沢永吉の本に同じ言葉が書いてあって、先輩オリジナルの言葉じゃないってわかったんですけど(笑)

真っ赤な洋服を着て「美容師がおしゃれしないで、誰がするんだ!」って真顔で言うような、オーラがかっこいい、伊達男の先輩でした。

 

⸺figuletiのこれからって?

お客さんの人生のエンドロールに登場したいなって思ってるんです(笑)オープンして16年なので、小学生で初めてのカットに来た子が、髪を染めたいって言い出したり、成人式だ、って言ってくれたり、帰省するときに寄ってくれたり。そういうのが最近すごく嬉しい。最期のときにちょっとでも思い出される美容師を目指して、これからもずっと髪を切っていたいです。

 


figuleti(2008年1月25日オープン/盛岡市鉈屋町4−15
ブログ https://ameblo.jp/figleti/