FA店 Crop mark
2025/7/31
10年以上25年未満の代替わりしていない小規模店。F(古すぎず)A(新しくもない)通称「FA店(エフエーテン)」。老舗特集にも新店特集にも載らない、でもきっと誰かの目的地になっているFA店の、今までとこれからのお話。盛星編集部がじっくり伺っていきますよ。
加藤 好江さん/Crop mark
⸺加藤さんの学生時代について教えてください
加藤さん)出身は盛岡市です。生まれも育ちも盛岡です。兄が二人います。一番上の兄は大学時代からずっと東京にいて、2番目の兄が家を継いで盛岡にいます。末っ子でキカンコです(笑)家は県営野球場の近くだったのですが、そこから下小路中学校まで歩いて通っていましたね。ちなみに小学校も当時は高松小学校がなかったので、仁王小学校まで通っていたんですよ。
高校は白百合学園で、部活は、この身長(148センチ)でバスケット部でした(笑)あの頃は「リトル」って呼ばれていました。仲のいい友達が入るって言うから中学でバスケを始めて、高校では違う部活に入ろうと思っていたのに、見学に行ったら久しぶりにやりたくなったんですよね。血迷って入っちゃいました(笑)
⸺勉強は好きでしたか?
全然!はっきり言って嫌いでした(笑)
学生時代の友だちがお店に遊びに来てくれたりすると「変わってないね」って言われるんですが、どうやら性格が変わってないらしくて。いろいろ経験もして自分の中では大人になったと思っているんですが(笑)
⸺高校卒業後の進路は?
高校卒業後は医療系の専門学校に行き、そのあと1年間だけ就職しました。実は小さいころからインテリアに興味があったんですが、インテリアコーディネーターという仕事を知らなかったんですよね。細かい作業が好きだから、という理由で歯科系の仕事に進みました。そのあとでインテリアコーディネーターという職業を知り、「自分がやりたかったことはこれだ!」と思ったんです。
盛岡には、インテリアコーディネーターの資格を取るための学校はあったのですが、基礎からしっかり学びたかったので、東京の「町田ひろ子インテリアコーディネーターアカデミー」という学校を選びました。そこはプレゼンテーションを重要視していて、資格だけでなく学びが多そうだと感じたんです。
ただ、医療系の専門学校を卒業させてもらったので、他の進路に進むことが親に申し訳なくて…。学費や生活費を出してほしいとは頼めなかった。進学する前に1年間は自分で学費を貯めて、入学後1年間は週2日のコースに通いながらアルバイトして生活費は自分で稼ぎました。でも、せっかく東京に行って学ぶのだから1年は全日制に通いたくて、最後の1年は生活費をお願いして。
週2回のコースの時は午前中だけの授業で、働きながら受講する人向け。知識を詰め込む感じでした。全日制なら授業中に課題をやる時間もあるのだろうけど、授業時間が短いのでプレゼンテーションのプランニングボードや製図の作業は家に帰ってからやることになりましたね。1週間のうち授業がない5日は通しでバイトをして、帰ってきてご飯を食べて、課題を始められるのは22時から。休みらしい休みもなかったし、眠さと闘いながら、自分が満足できないまま、とにかく課題をこなして完成させて持っていくという繰り返しで、自分は東京に何をしに来ているんだろうかと悩んだときもありました。
でも、アルバイトの経験が今に活かされてもいます。前半の1年半くらいは雑貨と洋服を扱うお店で、後半はソファーメーカーのショールームでバイトをしていたので。
あのとき「いいよ」って言ってくれた親に本当に感謝です。ありがたかったですね。
⸺移転を考えたきっかけは?
以前は紅葉が丘のほうでお店をやっていたんですが、とにかく雪かきが大変で。年を重ねるごとに「もう無理かも」って思ったんです。
ここ(リバーサイド森)の大家さんが知り合いで、以前から「空いてるよ」と言われていて。家賃の支払いなどを考えると無理だなあと思っていたんですが、8年くらい経ったころには、ありがたいことにお客さまも増えてきて「これなら大丈夫かな」と思って移転を決めました。
⸺東京でそのまま就職というのは考えなかったですか?
なかったですね。いま考えればいろんな選択肢があるから東京でもよかったんじゃないかと思いますけど、そのときは盛岡で働きたいと思っていました。建材メーカーから学校に「新しく盛岡にショールームを作るから人材がほしい」という求人がきていて、盛岡で就職することになりました。
子どもを出産した30歳までその会社に勤めました。仕事はコーディネーターというよりはアドバイザーという感じで、ショールームで工務店の方とお客さまにドアや床材のサンプルを見せながら説明したり、プランニングボードや見積もりを作ったりしていました。
子どもが生まれるまでは、夫と一緒によく海外旅行に行っていたんです。なかでもバリ島の民芸雑貨、例えば、アタという植物でつくられたかごバッグや、バリ独特の置物などにすっかり魅せられました。雑貨もそれからますます好きになり、いずれはインテリアと雑貨を扱うお店ができたらいいなと思い始めたんです。それが28歳くらいのときですね。
1番上の子どもが1歳を過ぎた頃、やっぱり仕事をしたい、雑貨店もやりたい、と考えていて「あ、材木町のよ市でやってみようかな」と思い立ったんです。よ市は週に1回だし、4月から11月の期間限定。それだったらやれるんじゃないか、数時間なら土日休みの夫に子どもを預けてやってみよう、「3年やって、自分で店を出すか決めよう」って。それを目標にしてよ市での出店にチャレンジしました。
⸺実際はどうでしたか?
当たり前かもしれませんが、売れるときは売れますが売れないときは全く売れないんですよ。日によってこんなに違うものか、と思いましたね。出店の準備や撤収も、短時間でやらなくてはいけないし。でも、若くて元気でしたから(笑)、よ市ではまだ珍しかったパラソルを出して人目を惹くように工夫もしました。ところが、2年目が始まったころに2人目の妊娠がわかり、切迫流産しそうになったのでしばらくの間休むと決めたんです。
第2子である娘が1歳になり、よ市出店に復帰したのですが同じ年の秋に長男が自閉症であることがわかりました。「自閉症ってなに?」というところからスタートだったので、まずは子育てに集中しよう、落ち着いたらまた店のことや、コーディネーターとしての仕事についても考えようと思っていたんですが、落ち着くどころかどんどん大変になっていって。ほどなく第3子も生まれて、とんでもなく忙しくなりました。
長男は家以外の場所は苦手な子で、小学校にも行きたがらなかった。強引に連れて行っていましたが、成長とともにそれも難しくなり、仕事は諦めるしかありませんでした。
私たち夫婦が購入した中古住宅で義両親と同居したのですが、思ったよりも同居生活は負担が大きくて、「二世帯住宅に建て替えする?今の家をリフォームする?」と考えていたところでお隣にあった小さな家が売りに出ることを聞きました。ちょうどいい距離感で暮らせるかもと思い、そちらを購入、義両親に住んでもらったんです。
でも、その暮らし方で7年が過ぎたころ、義父が身体障害になってしまって。私たちが住んでいた家の方が車椅子での生活がしやすいということもあり、再度同居。隣の小さな家は5年間空き家の状態でした。毎日、充実してはいたんですが、物理的に家族と離れ、自分の時間をもちたいと考えたときに「あ、隣の小さな家が空いてる」と思ったんです。お店をやってもこんなところにわざわざ人は来ないかもしれない。でも「店をやる」「仕事だから」という理由で1人の時間が持てる、と思いました。ちょうど10年前なので47歳のときですね。
長男が16歳になるときに奥中山の学校に転校し、寮生活になったことも店を始めるきっかけでした。生活リズムが変わったので、平日は店ができる、自分の時間ができるなと思いました。
⸺オープンの日はどうやって決めましたか?
とくに記念日とかではないですね、始められる日がその日だっただけです。
お店の名前は夫がヒントをくれました。「地下に古代遺跡があることで土壌が変化し、草の生育状況も変わり、模様がでてくる。それをクロップマークと言うんだって」と教えてくれて、あぁ、自閉症の長男との今までの関わりみたいだなあと思ったんです。長男の行動の理由って、その瞬間は分からないんですが、何年後かに「こういうことか!」と分かることがある、それとすごく近いなって。
オープンのころは雑貨がメインでしたね。あと、部材関係。アイアンの部材を売っているお店があまりなかったので、仕入れて扱うようにしました。実際に家で使うとどんな雰囲気になるのかを見せながら提案したらインテリアコーディネーターの資格も活かせるなと思いましたし。
当時はFacebookしかやっていませんでしたがSNSを見てきてくださった方も多かったです。県内だと宮古市や花巻市からわざわざ足を運んでくださったり、岡山県から来てくれたお客さまもいましたよ。
⸺街なかでふらっと立ち寄るというよりは、クロップマークを目指してという感じですよね。
そうですね。靴を脱いで入る店だったし、お客さまそれぞれが目的を持って来てくださる方ばかりでした。庭の雰囲気がよく、ジブリの映画、「借りぐらしのアリエッティ」の世界みたいって言ってくださる方もいらっしゃいました。静かで穏やかで時が止まっているみたいな不思議な雰囲気で。わたしも、作家さんの想いや意図を丁寧にお客さまに伝えることができましたし、それを魅力と感じてくれたリピーターの方に支えられたお店だったなと思います。
⸺今の場所に移転したのはいつですか?
2年前、お店をオープンしてから8年目のときです。ここはここで良さがありますよ。中津川、番屋がすぐ近くにあり、日が暮れてライトアップされた景色も美しくて、家へ帰りたくないなと思うときもあります(笑)
自分でお店をやってみて感じたんですが、インテリアを買うのって最後の最後なんです。お店に見にきて最初に買うのは雑貨より洋服が多く、その次が雑貨、最後にインテリア。ライフスタイルが変わるタイミングで「クロップマークにあれがあったな」と思い出してもらえたらいいなと思っています。
⸺心に残っている言葉、教えてください。
「ピンチがチャンス」ですね、わたしの人生そのものを表しているような言葉です。八方塞がりだって思ったとき、どう切り開けるだろう?って考えて、考えて。そうすると新しいことが見えてくる。長男の自閉症もそんなふうに考えながら一緒に暮らしてきました。
店を始めるきっかけもそうでした。どうしようもないけど、このままでは絶対に嫌、それに押しつぶされる自分も嫌。そこで思いついたのがお店でした。「ピンチがチャンス」ってちょっとかっこよすぎる言葉ですかね(笑)まあ逃げたというか、逃げる場を自分で作った、というのが正直なところです。いろいろな人に助けてもらいながらでしたね、絶対1人ではできませんでした。
⸺お店の中に、自然に「福祉」が溶け込んでいるような感じがしますよね。
ありがとうございます、それは嬉しいですね。福祉事業所などで作っているよいものを自分の店で扱っていきたいなという思いがずっとありました。最近はデザインや機能性の面からみても長く使えるもの使いたくなるものが増えているんですよ。
⸺クロップマークのこれからについて教えてください。
すぐにというわけではないですが、商品のラインナップはインテリア寄りに戻していきたい気持ちはあります。服や雑貨も好きですが、限られたスペースで今自分が力を入れたいのはインテリアだな、って思うので。
実は4年くらい前から、ダブルワークをしているんです。末っ子が関東の大学に進学したので仕送りが必要で。このお店は続けたかったですし、毎週日曜の夕方からは知的障害者のグループホームで働いています。体力的には大変ですが、福祉の現場で働くのもまた違う楽しさ、魅力があるんです。
あと3年すると第3子が大学を卒業します。そしたら、この店はもう少し自分のペースでできるようにしたいですね。前の店では週3日を休みで、そのリズムがとてもよかったのでグループホームの仕事も続けながら、この場所でできるだけ長くクロップマークを続けられたらいいですね。
Crop mark (2015年7月22日オープン/盛岡市紺屋町4−2 リバーサイド森 204号室
Instagram @cropmark2015
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