盛岡という星で ThePlanet MORIOKA BASE STATION

盛岡を小さく丸いひとつの星に例えます。今までとは違う角度から盛岡を写し取り、見つめようとするものです。 盛岡を小さく丸いひとつの星に例えます。今までとは違う角度から盛岡を写し取り、見つめようとするものです。

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FA店  カレー工房CHALTEN

2025/2/28

 

10年以上25年未満の代替わりしていない小規模店。F(古すぎず)A(新しくもない)通称「FA店(エフエーテン)」。老舗特集にも新店特集にも載らない、でもきっと誰かの目的地になっているFA店の、今までとこれからのお話。盛星編集部がじっくり伺っていきますよ。

 

星野公一さん、星野恵美さん/カレー工房CHALTEN      


 

⸺星野さん、ご出身は?

公一さん)東京都の足立区です。下町で高い建物がなく、家ばかりあるところでした。1歳上に姉がいます。小さい頃は泥遊びが好きな子どもだったそうで、いつも服を汚して帰ってきてたみたい(笑)中学は卓球部でした。高校では学校の部活には入らず、社会人の山岳会に入って、大人と一緒に山に登っていました。

 

小さい頃から山登りをしていたのでしょうか?

公一さん)いえ、高校に入ってからですね。家から奥多摩あたりの山が見えて「登ってみたいな」という憧れはありました。社会人の山岳会もいろいろで、ハイキングがメインのクラブもあれば、冬山やヒマラヤ、ヨーロッパアルプスを目指すようなクラブもあるんです。当時、自分には「ヒマラヤの8000m級の山に登りたい」という夢があったので、岩登りや海外登山をする山岳会を選びました。少数精鋭で、メンバーは10人ほどでしたが、チャレンジできる、技術を磨けるクラブでしたね。

高校卒業後の半年も含めて、だいたい3年半くらい、山岳会に在籍していました。ヒマラヤのアンナプルナという山に遠征があったんですが、わたしはまだ実力不足で留守番だったんですね。2か月くらいの遠征の間は活動ができない。それで休みの間は自転車で日本一周しようと思ったんです。2か月で戻ってくる予定だったんですが、自転車の旅もまた違う面白さがあって、たどり着いた北海道のスキー場で働いて越冬したんです。そのまま3年くらいいましたね。春がきたら、また自転車で旅をし、夏になったらユースホステルで働いて。

ユースホステルは、一泊の人も長期滞在者もいる比較的安価に泊まれる宿で、わたしが働いていたところは礼文島の「桃岩荘ユースホステル」というところでした。ここが、ちょっと変わったところで(笑)夜にミーティングと称して歌や踊りでお客さんを楽しませるショータイムがあったり、島のガイドもおもしろおかしくやるし、船が出航するときには盛大なお見送りセレモニーがあるんです。女性スタッフは主に炊事と掃除、男性スタッフはエンタメ担当で。

うちの家内とも桃岩荘ユースホステルで出会いました。家内は前職が看護師だったんですが、仕事を辞めて礼文島の診療所で3年間働いていたんです。

恵美さん)礼文の暮らし、「過酷そうだね」ってよく言われるんですが、海産物は豊富で美味しいし、漁師さんも身近にいていろいろ頂くことが多かったです、ウニ、いくら、カニがおすそ分けでもらえました。

 

奥様の第一印象は?

公一さん)初めて会ったのは自分が19歳、家内が20歳のとき。「元気な人だなあ」と思いました。それで、2年後に再会したときも「相変わらず元気だなあ」って(笑)その後、2、3年は連絡をとらなかったんですが、私が初めて南米に旅に行くことが決まり、どういう薬を持っていったらいいか教わっているうちにお付き合いが始まりました。

南米には23歳、24歳、26歳、29歳の4回、トータルで3年くらいの期間行ってるんですが、4回目の29歳のときは家内も一緒に自転車で旅しました。最初に南米に行こうと思ったのもそんなに理由はなくて…(笑)日本が冬だったので南半球に行こうかな、くらい。南米の国や位置関係が全然わからなかったんですが、パタゴニアだけは知っていて。「この山を見ながらサイクリング出来たらいいな」と思って行き先を決めました。

旅費はスキー場と山小屋で働いた分でまかないました。4回の滞在期間はそれぞれ違っていて、4ヶ月、1年4ヶ月、半年、9か月。トータルで2年11か月。一番長く行った24歳のときの1年4ヶ月が一番面白かったです。まだ若いし・・・やっぱり旅は若ければ若いほど楽しいです(笑)

 

滞在中、カレーは食べていたんでしょうか?

公一さん)自転車旅の食料事情のことは、旅をメインにしたInstagram(@chalten_morioka)によく書いているんですが、ああいうところって食料の補給がなかなかできないので1、2週間分の食料を自転車に積むんです。一番手っ取り早い食事は米を炊いてチャーハンを作ることですね。生米を積んで走って、圧力鍋でごはんを炊くんです、標高が高くて普通の鍋では炊けないので。1回に5合ほど炊いて、チャーハンにして3食に分けて食べます。下手すれば1か月ずっとチャーハン。具は玉ねぎと芋だけ、味は塩コショウと醤油だけ。それを毎日。ただ、家内と行ったときは「さすがにかわいそうだよな」と思って、ソーセージやベーコンのような保存がきく食材も持って行きました。

恵美さん)食べられるものがあれば十分でした。町に行けばそれなりのご飯が食べられましたし、飽きることはなかった、全然苦ではなかったです。

 

29歳までは、山小屋やスキー場で働いて、そのお金で南米に行くというのを繰り返していたんですね。

公一さん)最後に南米から帰ってきたのが30歳で、そこから5年間、埼玉県にあるホンダの自動車製造工場で働いて開業資金をためたんです。自分は定職に就くのは無理だなと自覚していたので勤める気はなかったですね。山小屋やスキー場の社員ならまだいいのかもしれませんが、普通の会社だと自分には合わないだろうなあと。

両親も飲食業だったので、カレー屋を始めると話したときは「儲からないし、とにかく大変だぞ」と猛反対で…。その時はよくわからなかったですが、実際にやってみると当たってるなと思います。だから、自分の娘がもし「カレー屋をやりたい」って言ったら同じように猛反対しますね。「やるもんじゃない」って(笑)

出店する場所は家内の実家がある岩手と決めていました、山もあるし。最初はカレーじゃなくて、南米料理屋をやろうかと思っていたけど、南米に長く行っていた割には南米料理を食べていないんですよ、チャーハン生活だったし。それに、岩手では南米料理に馴染みがなくて、美味しかったとしてもお客さんが来ないんじゃないかと思ったんです。

カレーは小学生低学年のころから作っていました。ルーを溶かすような普通のカレーからスタートして、中学生のころには調味料を足してみたりアレンジしながら作っていました。

 

お店の形はイメージがあった?

公一さん)決めてなかったです。ホンダで5年働いたうちの最初の4年間は、ひたすらお金を貯めることだけに専念したので、食べ歩きもしなければカレー作りもしなかったんです。それで最後の1年で「どうするの?お金があってもカレーが作れなければ店ができないじゃん」って自問して。それから、1年間で70軒くらいのカレー屋を食べ歩き、休みの日にはカレーを作るという生活をしているうちにだんだん「こういう店がいいな」というイメージができてきました。南米料理屋ではないですが、うちの唐辛子はペルー産のアヒ・アマリージョやロコト、コリアンダーを使っています。一応「南米風」と言えますかね(笑)

 

4年目の1年で食べ歩き、カレーを作り、岩手に来たんですね。

公一さん)はい、岩手に引っ越す前に物件を探さなくちゃいけないので、毎週…というと少し大げさですけど毎月1回くらいは1人で盛岡に来てひたすら市内を歩いて、どういう街なのか、どういう空き店舗があるのか、どういうお店があるのかチェックました。

それでカレー屋さんの前に何時間も立って、オープンから15時くらいまでの間にどんなお客さんが何人入ったかをずっと観察していましたね。

それで、立地も良いし、やるならここしかない!と思ったのが今のお店がある場所です。何回か通っているうちに「テナント募集」の貼り紙がでて、すぐに不動産屋に連絡しました。で、大家さんがすぐに来てくれて中を見せてくれたんです。聞いたら貼り紙を貼って1日目でしかも自分が1番目だったそうで。もう運命だったんでしょうね。それですぐ「借ります!」と伝え、仮契約をしました。

もともとは「みたけ手芸店」というお店で、さらに70年前は靴屋さんだったそうです。ズドンと奥までフロアが広がり、ガラスのショーケースと、棚が並んでいて。

恵美さん)知人からは「あなたは資格があって働く場所があるんだから、きちんと働いて毎月ちゃんとした給料をもらって、公一さんが1人でお店やればいいじゃない」と言われて猛反対されました。

でも、やるしかないですから。



オープンの日はどうでしたか?

公一さん)知名度もないしご近所の方が来るくらいで、のんびりとオープンできるんじゃないかと思っていたんです。ところが、開店時間の前に外を見ると20人くらい並んでいて、11時半、開店と同時に満席になって。

恵美さん)記憶にあるのは、翌日分の仕込みが間に合わなくて、子どものごはんを作ったあと店にまた戻り、夜中の12時から深夜2時くらいまで仕込みをしていたことです。

公一さん)初めてだから要領が悪いじゃないですか。今だったらテキパキとあっという間にできちゃう仕事でも、あの当時は本当に時間だけがかかってしまって。オープンして1週間くらいは泣きたいくらい大変でした。実際、何度か泣いたこともありましたね。

 

10年を迎えた頃はどうでしたか?

公一さん)会社でいう「65歳定年退職」を早く迎えたいなという気持ちがずっとあったんですが、考えが変わってきましたね。体力があればもうちょっとやってもいいかな…と。

何が変わったかというと、週休二日になったんですね。今までは単休だったのですが、1日だけだと仕入して掃除してってなるのでほぼ休みがないような状態なんですよ。週休二日なら休みのうち1日はまるっきりフリーになる。

それから、3年くらい前に旅の方のInstagramを始めたんですが、そしたら山の友達、自転車の友達が増えて楽しくなってきたんです。プライベートが充実してきたんですね。


心に残っている言葉、教えてください。

公一さん)ここは場所柄、転勤族のお客様がすごく多くて、数年で転勤されていく方が多いんですね。そういう方が、ここ最近、10年ぶり15年ぶりに岩手に来た時に立ち寄ってくれる。それで、「以前と変わらない味です、ありがとう」とか「店の雰囲気も昔のまま、本当にありがとう」って言われるんです。それが嬉しい!

恵美さん)つい最近も、オープン当初の常連さんで転勤した方が出張のついでに寄ってくれて「もう18年、19年前になりますよね。変わらず美味しく頂きました。ありがとうございます」って言っていただけて。お店を初めたころには予想もできなかったことです。やっぱり長く続けたからだよね。お付き合いしていた方が結婚して、お子さんが産まれて、家族でテイクアウトしに来てくれたり。

最初お母さんと来ていた5歳くらいの子が今では立派な大学生になってるんです。言葉はそんなに交わしませんけど、その子の成長を一緒に見ているような気持ちになりますね。こういうのは長く店を続けたからこそ味わえること。ありがたいことです。

 

これからについて教えてください。

公一さん)65歳の引退まであと10年って思ってたけど、もうちょっとやってもいいかな、って。でも、できることなら、もう一度ボリビアに行って自転車旅をしたいなという夢はあります。旅もけっこうお金がかかるから。まあ南米に行くのは難しいかもしれないけど、北海道、それこそ礼文とかには行けるかもしれませんね。

 


カレー工房CHALTEN  (2006年5月25日オープン/盛岡市中ノ橋通1丁目8-1
Instagram @curry_chalten

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